仕事を神事(かみごと)にまで昇華する

エッセイ
この記事は約7分で読めます。

昨年は本当にたくさんの出会いがありました。

2018年の8月、山形の出羽三山で3日間の山伏修行に参加しました。
羽黒山伏・星野文紘先達の宿坊、大聖坊が夏に行う山伏修行です。

羽黒山伏・星野文紘先達

↓星野先達のインタビュー記事

星野文紘
羽黒山伏

大聖坊の山伏修行は、3日間、出羽三山の山に入り、山を駆け、自然に祈り、感じることで、人間が本来持っている「感じる知性」を取り戻していきます。
夏に複数回行われますが、各回、男女30名ほどの参加者が修行をします。 そのほとんどが女性です。 全員白装束を来て、 3日間、私語は禁止、風呂も顔を洗うことも許されません。

その修業で、ある方に出会いました。
いつも仏様のようにニコニコしている年齢不詳の女性がいました。

修行は厳しいもので、2000m級の月山の頂上まで登りますので、体力のない人は残念ながら途中で山を下りるしかありません。

月山から湯殿山へ峰を下り、滝行をし、皆が宿坊に戻ると、宿坊の入り口で、ひとりひとり丁寧に「おかえりなさい」と声をかけていらっしゃる方がいました。
みんな声をかけられると、ふっと緊張が溶けて心がほどけるような雰囲気になっていたのを今でも思い出します。

修行は私語禁止なのですが、その方はなんの遠慮もなく「おかえりなさい」と声をかけ続けています。皆、挨拶をされても、お返事できないもどかしさを感じていました。

修行は私語禁止で、お互いの名前も経歴も知らないのですが、修行の後は、直会(なおらい)という宴会が行われます。大盃を飲み交わしながら、そこで始めて、お互いが何者なのか語り合うのです。

直会の様子・赤い服で立たれているのが今野華都子先生


その方は、今野華都子さんという、古事記をもとに、日本人の心を伝える活動をされている方でした。また、エステの世界一になられたり、リゾートホテルを再建したり、ビジネスマンとしても一流の方とのことでした。

華都子さんとはその後も一度だけお会いさせていただく機会がありましたが、その佇まい、微笑み、お話には、失礼ながら仏様が目の前にいらっしゃるような感覚にさえなりました。

その華都子さんは、長くブログを書かれており、拝読する中で、今の僕の心に響いた文章をシェアさせていただきたいと思います。

伊勢神宮「神の計らい」
天地自遊人さんのブログです。最近の記事は「新宿でマツコデラックスさんが絶賛したこれを見つけてしまいました。(画像あり)」です。

 「毎日、よくそんな違った仕事がこなせますね」と度々おっしゃっていただきます。フェイシャルエステの施術、洗顔洗心塾、古事記塾、講演会、御神事への参加などを指しているのでしょう。
 私たちは様々な生きるすべ(仕事)を与えられています。それが望んだものである時もあれば、そうでない時もあるでしょう。その他にも、子育て、介護、お食事の支度、洗濯、掃除、アイロンがけ……、数えあげればきりがありません。
そこに何を見るのか
何を感じるのか
何をさせていただくのか
 そこにあるすべてが、命(身体)をいただいたものが生きるために必要な物と事です。
 いただいた自分の仕事をつまらない仕事にするのか。それは言葉を変えれば、自分の生き方をつまらないものにするのか、それとも神業、神技にするのか、仕事を神事(かみごと)にまでに昇華するのかと、そう問われているだけです。
 神は、宇宙は、空想や妄想の中にあるのではありません。
 名を得ようとも、利を得ようとも思わず、ただ自己の本分を、自らの受け持ちを実行する、まさにそこにあるのです。
 まごころを持ってする仕事は必ず身を結び、何人かが必ずその真心を感じます。それを感じ、解った人から先にやるのです。先に解らせてもらったのだから、それだけ余計にやるのです。
 古事記の中で、須佐之男命(すさのおのみこと)は、父である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)から、目的を知らされることなくただ「汝は海原をしらせ」と、ことよさし(事依:ある物事を人に任せて執り行わせること)を受けました。地上にある、人と物を相手にせよと頼まれたのです。
 真意の分からない須佐之男命は不平不満を言い、青山の草木を泣き枯らし、海や川の水まで泣き 乾かしてしまうほどに泣き散らします。
 私たちも同じなのではないでしょうか。人は、いつかいなくなります。人が作った物も、いつかなくなります。でも、その期日がいつなのか、その期間中に何をしなければならないのか、誰も教えてくれません。
 人は確かにここにいて、幸せになりたいと願い、次々と物を生み出していきます。でも、やがてこの世は生々流転していくことだと知り、人が思う迷妄の幸せの奥にあるもの、「はじめからあって永遠になくならないもの」を探すようになります。
 須佐之男命になってみましょう。
 目を瞑って呼吸を整え、心を穏やかにします。寄せては返す波の音、波間からの朝の光、虫の羽音、小鳥の声……。
やがて小さな音も聞こえなくなり
風が体を通りぬけていく
考えるということがなくなり
ただ路傍の草の一本になり
朝露の一粒になり
どこかに消える
もっとも小さいものになり
見える景色のすべてが変わる
もっとも小さいものは
もっとも大いなるもの
すべてのなかに含まれるスピリット
見えない神の恩寵を感じて
行動で現すことを優しさ、思いやりといい
それを物に変えたときも
麗しい、美しい、貴いということを知り
魂が震える
 たとえ邪心はなくても、迷妄に荒れ狂う須佐之男命に、伊邪那岐命神は神のまごころである御稜威(みいつ)(厳かな威光)の力を働かせて気づきの時をお与えになり、やがて須佐之男命はその大いなる意志にこたえてすばらしい仕事を成しとげていかれるのです。
 本書の中で、赤ちゃんのように無邪気で、光に向かう状態でいることを「霊」といいましたが、この「ひ」を知ることを「霊知(ひし)り」といいます。「聖」のことです。そして、これは「さとり」とも読みます。「悟り」と同じ意味です。
 「霊」を表す生き方、自然の、宇宙の理に従う生き方、自分たちがいただいた力を我というものに捕らわれることなく天地のエネルギーのままに動く生き方がわかって、悟りを得たからと言っても、心は反応するものだから、感情がなくなるわけではありません。なぜ自分だけがこんなに苦しい悲しいのかと、思い悩む日々が終わることはないのです。
 でも、どこに戻ってくるのかを知っていれば、本質から遠ざかった時には、身に付いた氣枯(けが)れを禊をもって清めればよいのです。祓い言葉をとなえ、顔を洗い、お風呂に入り、衣服を清潔に整え、居住まいを掃除し、できるだけで清らかであろうと努めればよいのです。
 そして、一大事に際し、どうしても自分に力がほしいときには祈りましょう。朝陽に祈り夕陽に感謝し、神社仏閣に参拝し、見えないものに祈る……。「いのり」の「い」とは「いのち」すなわち身体が神さまに、乗り移ることをいいます。
 大和の人は自然の中に八百万の神々というスピリットを感じながら生きてきました。目で、愛で、見て、観て、診て、視て、看て、その自然の心を言葉に変えて和歌によみ、表から見えない心を心眼で感じて生きてきました。
 目に見えるもののすべてはやがて滅び、見えないものに帰っていきます。形を変えて存続してきた、自然、人、物のなかに見えない真理があり、生きるとはこれを見出し現し(表し)続けていくことです。私たちはみな、神の御言葉(みこと)、愛をこの世に現すための命(みこと)なのです。
 大和の国にとっても、私たち一人ひとりにとっても、さまざまな苦難はこれからも等しく続くことでしょう。
 いまは分からずとも、魂が学ぶべき何かがあって、その苛酷な運命を選び受け取ったのです。
 大変だと思う、辛いと思う。なぜ私なのかと涙がこぼれる日もあるかもしれません。でも、あなたがその「霊」でいてくれることが、どれだけの大きな愛を生み、そこにつながる人たちに美しい光を与えているかということを、どうぞ憶えていてください。
 他の誰でもないあなたこそが、霊止(ひと)としてあることの美しさを、生きたあかしとして見せてくださる人です。
 それが私たち大和の人の役割なのです。
二〇一五年六月二十二日 日の光きわまる夏至の日に     今野 華都子

自分の仕事を神事(かみごと)にまで昇華する。

その言葉が、今、自分の中に深く響いています。

天職を持つ事は、誰もが理想としていることです。
まだ、天職に出会えていないと思う方もたくさんいるでしょう。

でも、天職はやってくるものではなく、自分から天職にしていくものです。

僕もまた、映画を作ることが自分にとっての天職、そして神事にまで昇華するように、精進を重ねる毎日です。

↓とるつなぐのいろいろ

タイトルとURLをコピーしました