映像・映画制作者におけるマルチ・ポテンシャライトを考える

エッセイ
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10月6日、マルチ・ポテンシャライトのイベントに参加してきました。先日お知り合いになったKeikaさんが、ポートランドでおこなわれたマルチ・ポテンシャライトの世界大会「Everything Conference 2019」に参加されて、その報告会が雑司が谷で行われました。

マルチ・ポテンシャライトとは、

マルチ(多くの)
ポテンシャル(潜在能力を持つ)
アイト(人)


を組み合わせた造語で「様々なことに興味を持ち、多くのことをクリエイティブに探求する人」のこと。この言葉を提唱したのはエミリー・ワプニックさん。彼女のTEDトークは、TEDのウェブサイト、Youtubeを合わせれば700万回以上も再生され、マルチ・ポテンシャライトの概念は多くの人に支持されています。
まずは、この動画を見ていただければと思います。日本語の字幕も選択できます。

Why some of us don't have one true calling | Emilie Wapnick

天職が見つからず、職を転々としてしまう人。好奇心旺盛で、 ひとつのことに集中せず、 広く浅く学びたい人。複数の仕事をマルチにこなす人。ある程度やると、すぐ飽きて興味が次に移ってしまう人。このような特性に少しでも自分が思い当たるなら、あなたはマルチ・ポテンシャライトである可能性が高いです。 おおよそ、このような特性はネガティブに捉えられがちで、自分の情熱が長続きせず、ひとつに絞れない、ということに悩む人もいるでしょう。

日本人でただ一人「Everything Conference 2019」に参加されたKeikaさんもまた、この概念に出会うまで悩みを抱えていた、と言います。エミリー・ワプニックさんが、様々な肩書を持ち、どんな人なのか説明できないように、Keikaさんもまた、様々な経歴と肩書を持ち、説明するのが難しい人です。

お話を伺う中での個人的なヒットは、ロシア発祥のトイカメラ、LOMOが世界で話題になった時に、日本のロモウォールを作っていたメンバーの一人がKeikaさんだった、というエピソード。Keikaさんは当時LOMOを知った際、これは面白いと思って、すぐに日本での取り扱いをしていた所に足を運んだそう。その後日本で次々に開催されたイベントに関わり、ウィーンのLomographic Societyではオフィシャルサイトのトップページに作品が採用されていたことも。つまりこの好奇心と行動力こそが、「ザ・マルチ・ポテンシャライト」なのだろうと思います。
(※Keikaさんに事実関係を確認し修正いたしました)

Life of マルチ・ポテンシャライト
Keikaさんのブログです。最近の記事は「好きなことを集中して行う24時間(画像あり)」です。

ここでは、私の話も交えて、映像・映画制作者におけるマルチ・ポテンシャライトを考えてみたいと思います。

特に日本では、職人や専門職は、それ一筋でやり続けた人が評価される傾向があり、映画・映像制作においても例外ではありません。
プロデューサー、脚本家、監督、カメラマン、照明、音声、メイク、助手、俳優、CG、音楽、音響、編集…。映画のクレジットに膨大な数の名前が入っているように、映画・映像の世界は、分業が徹底されています。そこは完全にプロの職人の世界です。例えば、カメラマンの助手を例にとってみても、ファースト・アシスタントは、チーフとなって助手をまとめ、現場では露出(明るさ)を計る係、セカンド・アシスタントはカメラのフォーカス(ピント)を合わせる係、サード・アシスタントは機材の管理、フォース・アシスタントは補助、と、役割とヒエラルキーがはっきりしています。誰の現場で何年それをやってきて、どれだけスキルがあるのかが問われる、専門職です。

しかし、私はかつて、プラネタリウムというニッチな業界にいて、脚本を書き、演出をし、プラネタリウムのコンピュータのプログラミングをし、撮影をし、CGを作り、スタジオでナレーションのディレクションをし、音を編集し、映像を編集し、ポスターやパンフレットをデザインし、ウェブサイトを作り、営業をし、配給をするといったことを長年ひとりでしていました。(あるいは極めて少人数のチームで)
そして、今はそれを全部ゼロにして、数年前から映像業界で仕事をしています。
映像業界でもまた、私は企画、構成、監督、撮影、編集、とすべての工程を、基本は今も自分ひとりで行っています。
しかも、これらはほとんど独学で、人を見て学び、身につけてきました。

  ↓プロフィールに経歴を詳しく書いてみました。

マルチ・ポテンシャライトの人々の多くが、もっと極端な異業種を渡り歩いていくので、自分のケースは業界内のあくまで派生した仕事に手を広げていたに過ぎません。
若かったので好奇心の赴くままにやってきたわけですが、自分には常にジレンマがありました。それは、どのパートにおいても、それを長くやり続けた人には勝てない、という点です。
これは当たり前のことで、専門職から見たら、私の作るものは粗も多く未熟だったに違いありません。しかし、自分には技術を身に付けている時間はありませんでした。
幸い自分には、分野は違っても、その仕事の「押さえどころ」を見抜くチカラは備わっていたようで、「最低限こことここを押さえれば合格ラインのクオリティが出せるポイント」を見つけて集中し、自分のモノにするということを、様々なパートでやっていました。

専門職だったら、ひとつのパートに全力で望み、100%以上のクオリティを目指していくでしょうが、私の場合は、あるパートで60%のクオリティしか出せなかったとしても、他の得意なパートで90%、110%と積み上げていって、全体の平均点を上げていく、ということをやっていました。それは私が演出・監督し、作品の責任を持つ立場だったからこそできたことでした。
そして、100%の職人が100人集まったとして、10000%のものが出来るとは限らないのが、このクリエイティブの世界だったりします。時には平均を大きく下回ることもあります。(いや、よく…あります)
私は、そこにはチャンスがある、と、ずっと思っていました。

通常、監督は自分のイメージを、人を使って作り上げていくものです。だから職人としてより、優れたマネジメント能力が必要です。そして人を率いるということは、高い人望と人徳、カリスマが要求されます。だから監督は自分から作業するということをせず、全体のマネジメントと演出に集中すべきポジションで、これまでの名だたる監督たちはそこに至るまで、助監督として長い年月の下積みを重ね登っていきました。

しかし、私の場合は、自分の作品を作り上げるのに、それでは遅い、と常に思っていました。
そして自分のイメージを具現化するにあたって、専門職の人たちのルールや「こうすべき」という先入観が表現にブレーキをかけ、常にもどかしい気持ちでいました。

専門職の人たちの、完璧に仕事をこなしたいという心意気はよく分かりますし、充分に予算と時間をかけて納得のいく仕事をしてもらいたいという気持ちはいつも持っています。

でも、それでは遅いし、自分のイメージに永遠に近づいていかない、と感じる場面が多かったのです。そんな時間は待てない。だったら、自分でやってしまえ、というのが当時の答えでした。そして、あらゆるものをルール無視で構築していくことが、何よりも楽しかったのです。

しかし、頑なに自分でやることに固執していたわけではありません。 実際に経験したことで、 そのパートの「押さえどころ」が理解できているが故に、専門職の凄さが理解できたし、より的確に指示が出せるようになり、どう協力してもらえば、自分が理想とするイメージに近づけるのか、最短距離で考えられるようになったのです。そして例えば、このパートは絶対に100%以上のクオリティでいかなければいけない、と思った場合、素直に手放して専門職のプロに依頼するスタンスでいます。

私は本当に小さなインディペンデントの自主映画を作っていますが、映画監督とは名乗らず、映像作家と名乗っています。その肩書きの意味するところは人それぞれかと思いますが、私の場合は、映画監督が設計図をもとに家を建てる「職人」的なものであるのに対して、映像作家はすべての工程にタッチして、家なのかわからないけど個性的な建物を建てる、「気ままなビルダー」のようなイメージがあるからです。

自分が作るものは粗雑で、未完成で、荒々しいなといつも思います。
でも一方で、極めて繊細で感覚的な世界でもあり、職人たちが高い精度で構築するものとはまた違った表現を目指していたりするのです。

そして、映像業界においては、ツールの進化で、マルチ・ポテンシャライト的に作品を作る、個性的な作家が増えてきました。それは非常に喜ばしいことです。
ちなみに、その元祖は岩井俊二監督でしょう。ミュージックビデオ出身の岩井監督は、映画を撮り始めた当初、自分のイメージを作るにあたって、旧来の映画の撮影現場のスタッフとことごとく衝突した、と言います。あの名作ラブレターは、本当にズタボロの中で作られたと…。今では脚本・監督だけでなく、音楽、編集、照明、カメラまで自分でこなしています。

岩井監督に代表されるように、今は、監督がマルチ・ポテンシャライト的に映画を作ることが当たり前になってきました。むしろ、今、現場での下積み経験のある監督が減っており、驚くべきことに、最近の映画祭に出品された映画では、助監督から下積みを経て監督になって撮った人は、ほんの1~2人しかいないという現象が起きています。助監督経験のある監督がゼロという映画祭も少なくないはずです。その中には、映画学校で学んだ監督もいるでしょうが、多くは他に職を持ちながら、様々な社会経験を通してテーマを見つけ、作品を撮っています。
これが何を意味しているかというと、オリジナリティのある映画は、職人的な専門性のあるところより、マルチ・ポテンシャライト的な人々によって誕生しているということです。
(ちなみに、映画祭において下積み経験のある監督の作品は、ずば抜けてクオリティが高く素晴らしいです)

マルチ・ポテンシャライトであることは、決して計画的な人生設計ではありません。しかし、あらゆる分野を横断することで積み上がった知見が、新しい発想やアイディア、感覚、世界観を生み出すことは間違いありません。あのレオナルド・ダ・ヴィンチも典型的なマルチ・ポテンシャライトだったとのことです。

そして、自分の感覚に素直に反応し、行動し、生きることが、より自分らしさを生む。興味の赴くままに様々な分野を横断し、それが回り道だと思っても、最終的に実るのは、見たこともない、オリジナルで、芳醇な果実であることを、マルチ・ポテンシャライトの人々はこれから証明していくと思います。

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